"戦闘美少女を見ても、宮崎駿を見ても、ジェームズ・キャメロンを見ても、AKBを見ても、新自由主義における特権的主体としての「女」は、流行し、期待され、文化的賞賛を浴びているように思われるかもしれない。しかし、それは、「女」が「女」という記号を背負っているだけのことを理由に、空虚なかたちでその記号が消費されているにすぎない。賞賛であっても、性差別の一形態である。それは「賞賛」の名を借りた性差別である――「女子高生」が「女子高生」であることだけを理由に消費されるとき、かりにそれを有意義に利用することが不可能ではないとしても、しかしそれは、構造的な性差別に他ならないことは自明であるように。
新自由主義のこのような文化は、特権的な「女」を利用して男の搾取をも正当化するレトリックとなる。AKB48のメンバーが女性でしかありえないことは、あるいは、男性版AKBが構想しえないことは、どこかおかしなことではないだろうか。「女」は新自由主義下における労働者の特権的な記号であり、そして、特権的な記号であるとは、「女」が優遇されるということと同時に、新自由主義経済の矛盾は「女」という記号において集約され、かつ、正当化されるという意味である。"
——三浦玲一「第三章 ポストフェミニズムと第三波フェミニズムの可能性」——三浦玲一『ジェンダーと「自由」——理論、リベラリズム、クィア』
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1875-3.html
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